多分、今回自分が衝撃だったのは、こんな形でのハロ“卒業”もあり得るんだってこと。
そして、それがごっちんだったこと。
およそこの2点だと思う。
確かにさ、アルバムを聞いた時点で、これはここで一区切りなんだろうなとは思ったよ。明らかにそれまでとトーンの違うアルバムだったし。久し振りにつんちゃんの意地みたいのも感じたしね。
そして、次のステップへの準備も進んでたんだろうなってのも、うっすらと分かる。
何より、ごっちんのステージを見て、ここではごっちんに狭過ぎるってすごく思ったのよ。何か、それを凄く感じたの。
体調も万全ではなさそうだったし、色々とあったりもしたんだけど、それでも何だろ、何かごっちんを包む空気が違ってた。
あの大阪が、昼、何とも言えない空気だったんだよ。多分、今回のツアー初めてって言う人が多かったせいもあるとは思うけど、あれはきっと飲まれてたんだと思う。ごっちんに、ごっちんをサポートするダンサーさん達に、そのメンバーが醸し出す空気に。
口に出しては言えない、違和感ていうのかな。何かいつもとは違う緊張感があった。そして、それは多分、主にごっちんから出ていて、ごっちんが歌い終えて、MCになるとわずかに緩むんだけど、歌いだすと空気が変わる。上でダンサーさん達の様子も違ったと書いたけど、あれはごっちんのそういう空気を感じて、答えた形だったのかも知れない。
大阪のお客さんてのは、自分も含め、そういう空気を察知するのは早いからね(笑)、夜はいつもの空気に何とか持ち込んでいたけども。
それでも、そのステージングの素晴らしさを持ってしても拭い切れない、何かしらの予感をみんなあの夜持って帰ったんじゃないのかな。
だから、極めて異例ではあるけれど、どこか違う場所でごっちんが歌うって選択を、こういう形で知らされたのでなければ、理屈ではなく、感覚的な部分でそれは納得いったかも知れない。G?のあの雰囲気を感じたことのある人なら、多分、何となくではあるけれど、ああ、やっぱりと感じるとこがあると思う。
でも、考えてみて欲しい。何の気なしに行ったコンサートで、あるいはある種の予感を持ちながら行った公演で、自分の推しの口から今日でハロを“卒業”しますと言われた光景を。
それも、あのごっちんが泣きながらだよ。ありえない。まじ、ありえない。自分が好きな人たちが目の前から突然、姿を消すのだ。一時的とはいえ(そう思いたい)、いつもそばにあった声が届かなくなってしまうのだ。
それはもの凄くおおげさな話、自分の日常が一部奪われるようなもんだと、自分は思う。
自分はこんなブログなんぞぶち上げてるような人間であるから、夕ご飯作りながらとか、風呂に入りながらとか、そういった何でもない時でも、ふと吉澤さんのことを考えてたりする瞬間がある。それはまあ、他人様に言えない妄想から、取るに足らないよっちぃ格好良いだったり様々だけど、そういう瞬間が日常になかんずく混じり込んでおり、ある日、明日っから吉澤さんの姿が見えなくなるなんて考えたら、もの凄く寂しくなると思う。
だからこそ、それはまあ、商売絡みではあるかも知れないけど、“卒業”って儀式が有り難いなと思う時があるんだよ。
それは、本当にこの春実感した。ハロの場合、自分の推しが何かしら形態を変える場合、大概、少しの執行猶予を貰える。ゆっくりとさなぎが蝶へと姿を変えるように、自分の推しがそれまでと違ったものへと姿を変える瞬間を、うちらはじっくりと見ていられる。
そして、ゆっくりと受け入れていけるのだ、その現実を。
あるものは、現場に駆けつけ、あるものはネットにかじりつき、彼女の姿を焼き付ける。そうやって、徐々に慣らしていくのだ、例えば、モーニング娘。ではない、吉澤ひとみという存在を、自分の日常に。
それはまた、吉澤さんやOG達にとっても、自分の変化を受け入れる“時間”でもある。
“時間”そう、時間だ。ハロのビジネスモデルの何が上手いかと言えば、この時間の成果を、うちらにまざまざと見せつけてくれることにあるんじゃないかと思う。
ほんの子供だった娘。達が成人し、独り立ちし、それぞれの道を行くまでを、ほぼリアルに追えるなんてグループ、そうざらにないからね。
しかも、ほとんど事務所は手を加えない。悩むならその姿を、当たり前のように晒し続ける。
それを見て、こちらは時に喜び、時に憤慨しながら、その子を追う。
こちら側と、あちら側。確かに薄いけど頑丈な膜がそこには存在するけれど、まるでないかのような距離感がヲタさんの中にあるのも、そのためだと思う。
だからこそ、新しい“距離”に慣れるまでの時間が欲しい。それはそういうものなんだ、と受け入れる猶予が欲しいのよ。
大きな鳥ほど、飛び立つ時、助走が必要になる。それを見送る側にも、心の準備ってもんがあるだろう。
それが、まあ、今回の場合、事情があるとはいえ、ほとんど貰えなかったんだな。
ハロじゃない、後藤真希を受け入れる時間があまりにもなかったんだ。
それが、まずショックだったのかな。ある日突然に目の前から推しが消えるなんてこともあるんだと。“卒業”の儀式を事務所が無視することもあるんだと。そういう今まではあり得たけど無視出来た事実が、如実にされて、まず驚いたんだと思う。
いや、まあ、普通のアイドルなら、それが普通なんだけどさ。今まで、ハロは違うとどこかで高をくくってたとこがあったんだろうな。
そして、ごっちんの存在。
確かに、ごっちんはその初めから異端だった。ある意味、娘。の王道である、安倍さんに対するアンチイズムとして、娘。に存在させられていたし、ハロ全体を見ても、他に比べるもののない存在だった。
だからこそ、ごっちんはハロの象徴でもあったんだと思うのね。そういう存在すら飲み込めるほど、ハロと言う器は浅いかも知れんが広く、ヌルいかも知れんが自由だった、そういうハロー!プロジェクトの象徴が後藤真希という存在だったんだと自分は思う。
いや、すっごい遠いかも知れないけどね、そういうハロだからこそ、吉澤さんがアイドルとして存在できたんだと思うよ(笑)
そのごっちんが、色々あるんだとは思うけど、ハロを去るということは、ハロ自体が形を変えようとしてるということなんだろうな。
おそらく、自分みたいな奴が惹かれたハロではなくなっていくんだと思う。
変化は悪いことではない。というか、水は流れなきゃ腐る。
その過程において、道を分つも良し、再び合流するも良し。
だが、分かれていく人を見送る時間が欲しかった。そして、向かう先というのを、おぼろげでいいから示して欲しかった。
多分、その二つに尽きるんだと思う。自分の心のもやもやというのは。

ただ、どういう事情があるにせよ、ごっちんから歌うこと、笑うこと、全てを奪うことを現時点で事務所が出来たって点は忘れちゃいけない。
揉めて泥沼になって、もっとごっちんが傷つくことだってあったかも知れない。
そうしなかったことだけは、今回のことで良かった点だなって思える。勿論、可能性の問題だけど。

そして、ちょっとだけ嬉しかったのが、ごっちんがそれでもハロという器に愛着を持っていてくれたこと。
こんなどうしようもない場所のために泣いてくれたこと。
それはもう、悲しいしやるせないし、出来ることならそんなことで泣くことなんてなかった方が良かったけど。
それでも、確かにごっちんの中にもハロという場所が存在してたんだなあと思えることは、有り難いことだ。
そう、よしごまでこっち側にすっころんだ人間は思う訳ですよ。はい。