存在の耐えられない軽さ

では、ある意味あり得ない存在だなあ。

ネタバレ含むので、隠し、隠し。
あくまで自分的に思う吉澤さんの魅力の一つに、存在の曖昧さと言うかあやふやさってのがある。
それはもう、ステージなんかに立ってる時の彼女は、きっぱりしっかりとここにいるぜ!と迫ってくる訳ですが、時々不意に、ひらりと身を翻してどこかにいってしまうような、そんな危うさを彼女の中に嗅ぎ取ってしまう。
そんで、ついつい気になって目で追うのが癖になったんだけども、これ、安倍さんだと全然ちがう。
何だろうな、安倍さんにも違う種類の危うさがあるんだけど、それも日常に根ざしたものから離れることはないというか。
こちらが理解したと思った瞬間擦り抜けて、またひょいっと知らない顔を見せる底の知れなさがありながら、昨日作った夕食のシチューがおいしいのを自慢するような、普通さも持ち合わせてる。
そんな絶妙なバランスで立っているのが安倍さんなんだと思う。
で、それが何につながるかと言いますと、例のお芝居の感想の一部なんですね。
主役の王子様にしても、他の主要キャストにしても、どこか浮世離れしたキャラ(ま、元がオペラだし、普遍的な意味合いを持たせるためにどうしてもああなるんだろうけど)が多い中、安倍さんがやってたリューはちょっと違って見えたんだな。
元々、親しみが湧く役ではあるんだよ。いわゆる“普通の人間”として、こちら側に立つ役だから。でも、普遍的な――言い換えると、ありがちなキャラであるリューが、あんなに現実感のある“人”に見えるのは、安倍さんが持ってる、その“日常感”がにじみ出してるからじゃないかなあ。こう、人間の匂いがするっていうか、触ったら柔らかそうな(笑)
まあ、それには歌がとても重いウェートを持ってるとは思うんだよ(これついてはまた別の日に書こうかな)。でも、あのリューという役の親しみやすさというか愛しやすさは、安倍さんのあの存在感があってのものな気がするんだよな。
例えば、ものを食べるシーン。王子や老師に食べ物をよそってあげたりするとこがあるんだけど、しぐさがしっくりと来てる。身に馴染んだ動作をしてる風なのな。こう、ちゃんと生活してる感じがするの。
それはまあ、リューの甲斐甲斐しさだとか、優しさを感じさせるちょっとしたシーンなんだけども、そこにリアルさ――王子への思いも含めて――を感じるのは、そういう普通っぽさを安倍さんが上手く醸し出してるからだと思うんだよね。
逆に言うと、そういう下地があるからこそ、のちのちのリューの行動の無鉄砲さにも言い訳が成り立つというかさ(苦笑)
何か、そう考えていくと、安倍さんてつくづく“行為者”なんだなあと思う。意識的なのか、無意識なのかは分からないけど、ことを為す人なんだわ。うん、この芝居的にもね。
にしても、今回の安倍さんは凄かったなあ。役の取り込み具合が半端なかった。もともと自分と役とを溶け合わせるのが上手い人だけども、安倍さんの中へのリューの浸透率はちょっと他にないんじゃないかな。
まあ、役柄的に得意分野ではあるけどさ。じっくり役を取り込むだけの時間が取れたってのも、かなり大きいんじゃないかな。今回のように普段は活躍する場が違う人たちの壮大なコラボレーションみたいな企画の場合、目指すところを一致させて、じっくり腰を据えて取り組んだ方が上手くいく気がするんだよ。だって、多分、お芝居に対する考え方も流儀も、全然違うんだからね。共通した意識を持つって言うのはとても大事。でもって、それを踏まえた上で、一つのものを作っていく面白さというかさ。大勢の人が一つことに向かっていく力の強さってあると思うんだよね。最初の合唱のシーンとか、波がわっと押し寄せて来るような迫力があるもん。
で、それにはやっぱり時間が必要だと思うんだよね。ほら、カレーは二日目がおいしいって言うじゃない。やっぱ美味いものを作るには、じっくり煮詰める必要があると思うのよ。それぞれに味がしみ込むまでさ。
後、安倍さんのいいところを引き出してくれた、出演者及び演出を初めとするスタッフさんに感謝。いやー、腕の良い料理人は、素材を活かすのが上手いね。それでいて、全体の味が損なわれないんだからすごい。まさにプロの仕業です。ありがとうございます。
なんつーか、安倍さんも含めて、このお芝居に関わった人のお仕事に対する意識の高さと、良いものを作ろうという気持ちがよく伝わってくるお芝居でした。
あー、安倍さんの独唱と、一幕最後のあのシーンは鳥肌もの。マジで生で聞けて良かった。歌の力って凄いわ。うん。